幸せは知性にあり

私は嫌われて当然である
わたしは人と比べてポカばかりする
小さなことにも大きく驚いて空気を乱すし
支払いなど当たり前な義務ができなかったりする
顔もブスだし体型もデブ
だから嫌われて当然だし
妻失格って烙印も仕方ない
人様のお役に立つなんてとんでもないし
子どもだって出来損ないに決まってる
これは事実?

この世界はどうせ…と決めつけていた
この世界はどうせ、だって、、
そんな風に思って(決めつけて)いた。
認識したこの世界、
認知したこの有り様、
目に見えたものは事実だと
わたしだけでなく誰もが当たり前のように
どこかで諦めつつも思っているのではないかと思う
一極二元論
自分の認知認識が変わりようのない事実だと捉えることが
当たり前になっているこの世界で
これら認知している情報は全て、
一極に集約される二元の片割れでしかないとしたら?

本質を見抜くことで本当に望む世界を叶える
認知は事実とイコールではない。
つまり、認知した情報から、認知できていない内側を見抜くことによって漸く二元揃い、一極を導き出すことができる。
という世界観から
欲しい解である一極の集約を試み
ジャッジや解釈、差別の偏りない本質を求め、
完全調和の世界を叶えようとするのが、易であり、
これら本質を見抜くことで
本当に望む世界を叶えることに特化したメソッドが
自己認識学アウェイクニング®︎である。
認知(陽)は、非認知(隂)を認知して
初めて有効活用できる情報となり、
いま当たり前だと捉えている世界を変える奇跡を起こす錬金術になる。

幸せは知性にあり
目に見えるこの相対的な世界を、
変えることのできない絶対と捉え、
この相対である他者との差に諦める未来を生きるのか
この目に見える世界は、
わたしの解釈次第で大調和へと変化可能だと、
わたしである喜びにオーナシップを持って生きるのか
進化とは多様の調和であると常に問いかけられている
